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マイケル・コスタ (指揮者) : ミニ英和和英辞書
マイケル・コスタ (指揮者)[もの]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ゆび]
 【名詞】 1. finger 
指揮 : [しき]
  1. (n,vs) command 2. direction 
指揮者 : [しきしゃ]
 【名詞】 1. (musical) conductor 
: [もの]
 【名詞】 1. person 

マイケル・コスタ (指揮者) : ウィキペディア日本語版
マイケル・コスタ (指揮者)[もの]

サー・マイケル・アンドリュー・アンガス・コスタSir Michael Andrew Angus Costa 1808年2月14日 - 1884年4月29日)は、イタリアで生まれ、イングランドで成功した指揮者作曲家
== 生涯 ==
コスタはナポリミケーレ・アンドレア・アニエッロ・コスタ(Michele Andrea Agniello Costa)として生まれた。ナポリで父から手ほどきを受けた彼はナポリ音楽院に入学、さらにその後ニコロ・アントニオ・ジンガレッリに師事した。
若年期から生涯を通じて、コスタはオペラ交響曲カンタータなどに膨大な数の作品を作曲したが、それらはいずれも長く忘れられたままとなっている。1829年、彼はイザヤ書の韻文に基づくジンガレッリの『''Cantata Sacra''』を指揮するためバーミンガムを訪れた。しかしながら、音楽祭の実行委員会は彼が指揮台に上がることを認めず、かわりに彼はテノール独唱者として舞台に登場した。しかし、これは失敗に終わった。こうしたことがあったにもかかわらず、彼はイングランドに定住することを決意する。
1830年、コスタはロンドンに移りヒズ・マジェスティーズ・シアターで働き始める。彼はこの劇場の指揮者として真に影響力を発揮したが、1847年に支配人のと決裂して劇場を後にすると、ロイヤル・オペラ・ハウスへと転身した。彼の練習、正確性そして合奏に対する配慮は当時としては斬新なもので、マイアベーアヴェルディからも称賛されていた。こうした事実にもかかわらず、コスタが純正主義者と呼ばれることはなかった。彼がヘンデルオラトリオメサイア』の管弦楽法を変更し、シンバルを追加するなどしていたからである。
コスタはイギリスに帰化し、1869年ナイトに叙された。1846年から1854年まではロイヤル・フィルハーモニック協会1848年からはセイクリッド・ハーモニック協会、1849年から1882年にかけてはの指揮者を務めた。また、ブラッドフォード(1853年)、ヘンデル音楽祭(1857年-1880年)、リーズ音楽祭(1874年-1880年)でも指揮を行っている。彼はイングランドで幾人かの弟子を育てており、門下生にはエマ・アルベルタッツィなどがいる。
1884年、コスタはホヴに没し、に埋葬された。彼が住んだロンドンのピムリコ、エクレストン・クスエアの59には彼を記念するブルー・プラークが掲げられている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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